這個標(biāo)題似乎就是新島八重的人生寫照,其人生充滿了傳奇,要不是她的故事歷史厚重感太多以及不符合日本傳統(tǒng)女性的特質(zhì),完成可以拍成晨間劇,而不是大河劇,她作為女性的作用遠(yuǎn)遠(yuǎn)大于《阿淺來了》和《亞久里》中的主角。
八重出身武士家庭,不過其家以火槍傳家,這在傳統(tǒng)日本武士看法中是比較“低等”的,但也正是槍才使得八重能夠“揚名一時”,在劇中的重頭戲會津之戰(zhàn)中,她使用后填彈式步槍可以說大殺四方,甚至擔(dān)任了指揮,這不說在輕視女性的日本就是在世界上也是少見的。當(dāng)然要不是步槍她也不可能如此英武。
而會津之戰(zhàn)卻很容易讓人聯(lián)想起日本的二戰(zhàn),我毫不懷疑日本在拍攝時就是如此思維,劇中總是強調(diào)會津是沒有任何過錯的,然后大力渲染會津的武士精神,不管是戰(zhàn)至最后還是親眷們自殺,無不顯示著日本的武士道精神。不過對于旁觀者來說卻是很讓人“惡心”,如果說會津當(dāng)時還不知道自己是逆時代而動,那經(jīng)歷過二戰(zhàn)的日本人卻著力渲染這種精神卻是丑惡的,甚至可以說是犯罪的,一批批無辜者在在所謂的大義下毫無意義地死去,如果這就是武士道精神,那這種精神還是滅亡的好。
而這種槍炮人生只是八重的前半段,在戰(zhàn)爭結(jié)束后,她在哥哥的指引下接觸到新知識,特別是基督教,并與日本最早的傳教士新島襄結(jié)婚。而由于性格以及丈夫接受的是西洋紳士教育,所以她顯得處處高丈夫一等。我認(rèn)為正是這點和戰(zhàn)爭經(jīng)歷使她的故事無法成為晨間劇的題材。
而之所以說她的后半生是玫瑰,是其在戰(zhàn)爭結(jié)束后,投身于教育事業(yè)以及紅十字事業(yè),也算是嶄新的人生了,而其事業(yè)也正好符合當(dāng)時日本的時代新發(fā)展,所以更顯得可貴,從這點看她能夠成為首位獲受勛的平民女性也是名至實歸的。
『八重の桜』(やえのさくら)は、2013年1月6日から12月15日まで放送されたNHK大河ドラマ第52作である。2014年度國際エミー賞テレビドラマ部門ノミネート作品[2]。
當(dāng)初はまったく別の作品を計畫していたものの、2011年3月11日に東北地方太平洋沖地震(東日本大震災(zāi))が発生したことを受け、NHK內(nèi)部で東北復(fù)興を支援する內(nèi)容にすべきだとの意見が上がり方針を転換。福島県會津出身で、同志社を創(chuàng)設(shè)した新島襄の妻となった新島八重の生涯を描いた作品となることが公式発表以前にマスメディアを通して明らかにされていた[3]。
同年6月22日に制作発表が行われた。この発表では同時に主演俳優(yōu)も発表され、大河ドラマ初出演となる綾瀬はるかが起用されることになった[4]。
クランクインは2012年9月9日。舞臺となる福島県會津地方でのロケーション撮影から開始され、9月13日には鶴ヶ城において出演者による記者會見が行われた。
大河ドラマにおいて幕末期を描いた作品は、1990年代以降も幾つか制作されていたが、昭和期まで存命であった実在人物が主人公となるのは1985年の『春の波濤』以來28年ぶりとなる。
ドラマ本編は明治30年代の描寫で完結(jié)しているが、最終話の紀(jì)行のコーナーでは晩年の八重本人の映像が使用された。大河ドラマの主人公となった実在人物の生前の映像が使用されたのは、本作が初めてである。
作中で會津弁を忠実に再現(xiàn)した結(jié)果、會津地方の人々からも「老人が使っている會津弁で聞き取りにくい」との指摘があり[5]、2013年3月10日放送分から、総合テレビジョンのデータ放送に、會津弁や歴史用語の意味を解説する機能が追加された[6]。
全50回の平均視聴率は14.6%(ビデオリサーチ調(diào)べ、関東地區(qū)?世帯?リアルタイム)で、當(dāng)時『平清盛』『花の亂』『竜馬がゆく』に続く歴代ワースト4位の數(shù)字だった。
この節(jié)の加筆が望まれています。
1865年、アメリカでは南北戦爭が終結(jié)。不要となった武器の多くが日本へもたらされることとなる。そして明治元年(1868年)、それらを裝備した新政府軍の攻撃にさらされる會津若松城の中に最新式のスペンサー銃を手に抗戦する一人の女性がいた。山本八重、後の新島八重である。
時は遡って幕末、諸外國からの開國要求が高まり、日本國內(nèi)は開國派、攘夷派などの思想の違いによる分?jǐn)啶黏瑜Δ趣筏皮い俊¥长螘r代の転換期に、會津藩の砲術(shù)師範(fàn)の家に生を受けた八重は、藩軍備の洋式化を目指す兄?覚馬や、その友である洋學(xué)者?川崎尚之助らの側(cè)で、會津そして日本の変化を感じていた。
幕末の爭亂により治安が悪化する京都警護のため藩主?松平容保が京都守護職に指命され、徳川將軍家への忠義を盡くさんと、會津は藩を挙げて倒幕派追討への動きに加わることとなる。それは後にいわれる「會津の悲劇」の序章であった。
戊辰戦爭に敗れた會津藩は「逆賊」と世間に罵られる中、八重と會津の仲間たちは新たな生き方を模索。家名再興を許された舊會津藩は、極寒の地に斗南藩をたて、飢餓や財政に苦しみながらも山川浩を中心に果敢に生きて行く。八重とその家族は兄?覚馬の生存を知り、覚馬を頼って京都へ渡り、そこで鉄砲に変わる「學(xué)問」という、新たな生きがいを得る。
幕末の動亂で尚之助との別れを體験した八重だが、アメリカ合衆(zhòng)國から帰國した新島襄と出會い、心を開き結(jié)婚。キリスト教に根ざした學(xué)校を作ろうとするも、偏見を持つ人々の反発に遭い葛藤する襄を支えたのが「ならぬことはならぬ」の精神を持った八重。従來の會津の教えを「良いものは良い」と発想を転換、肯定的に捉えて邁進し同志社英學(xué)校の開校にもこぎつける。その後も、二人の夢は同志社大學(xué)設(shè)立へと向かうのである。
「ジョー」「八重さん」と呼び合うこの風(fēng)変わりな夫婦が、明治という新たな時代を駆け抜けて行く。
新島八重(にいじま やえ)(山本八重 → 川崎八重 → 山本八重 → 新島八重)演:綾瀬はるか(幼少期:鈴木梨央[注釈 1][7])主人公。會津藩砲術(shù)師範(fàn)?山本家の長女。米俵を軽く持ち上げるほどの腕力の持ち主で、性格は自由奔放かつ男勝り。幼い頃から砲術(shù)に興味があり、父?権八に反対されながらも、兄?覚馬から銃の手ほどきを受け技能を伸ばし、新式銃の開発にも攜わるようになる。また、模擬戦の追鳥狩を木に登って見學(xué)している最中に草履を落としてしまい、家老の西郷頼母に厳しく叱責(zé)された。覚馬の勧めもあり、川崎尚之助に嫁ぐ。鶴ヶ城籠城戦では男裝して入城し、覚馬から贈られたスペンサー銃で戦い、活躍した。會津藩降伏後、生き殘った藩士達(dá)と共に豬苗代での謹(jǐn)慎を望むが果たせず、米沢の內(nèi)藤家に身を寄せ、この間に尚之助とは離縁。覚馬に呼び寄せられ、家族とともに京都に移住し、女紅場で教師として働くこととなる。その後、東京で尚之助と再會し、復(fù)縁を望むが拒まれ、京都で待っていると告げ東京を後にしたが、尚之助は間もなく亡くなる。失意の中、新島襄と出會い婚約するが、クリスチャンの襄と婚約したことで女紅場を解雇された。襄と再婚後は彼の興した同志社の経営にも関わり、彼の最期も看取る。襄の死後、覚馬の勧めで篤志看護婦人會に入會。日清戦爭では看護婦として負(fù)傷者の看病に當(dāng)たり、終戦後にその活躍が評価され民間の女性初の受勲者となる。川崎尚之助(かわさき しょうのすけ)演:長谷川博己洋學(xué)者。元出石藩士。江戸の象山塾で山本覚馬と知り合い、共に學(xué)ぶ。覚馬の人柄に惚れ込み、彼が設(shè)立する蘭學(xué)所に誘われて會津を訪れ、そのまま山本家の居候となって八重、覚馬と共に新式銃の開発を行う。藩への仕官が葉えば兵制改革がより一層進むと考えた覚馬から八重との縁談を勧められ、八重と夫婦となる。その後、働きが認(rèn)められて會津藩への仕官が葉い、會津が戦火に巻き込まれる可能性を予測し、覚馬の計畫を基に防衛(wèi)策を練る。會津藩が著手した軍制の洋式化を中心となって進め、梶原らと共に奧羽諸藩との交渉にも參加した。會津戦爭では大砲隊を率いて戦い、八重と共に奮戦した。降伏後、豬苗代の謹(jǐn)慎所へ同行しようとした八重を逃がし、自らは謹(jǐn)慎所送りとなったのち斗南に渡った。斗南藩の窮乏を掬うため米取引を行ったが、詐欺に遭って告訴され藩の指示を疑う警察に、全て自分の一存によるものと証言して責(zé)任を一身に背負(fù)って裁判を戦うこととなり、八重には事情を話せぬまま離縁。その後、東京で八重と再會し、夫婦でなくていいから側(cè)にいたいという八重の申し出に対し、裁判が終わったら必ず京都に行くと約束するが、病の悪化によって死去。八重の事を最期まで案じていた。生前、會津戦爭の記録を綴った『會津戦記』をしたためており、後に山川兄弟がこれを基に『京都守護職始末』を編纂した。新島襄(にいじま じょう)(新島七五三太 → 新島襄)演:オダギリジョー(少年期:小林海人)安中藩士?新島民治の子。前名は七五三太(しめた)。アメリカに密航し、同地で學(xué)んだキリスト教の精神で內(nèi)戦に傷ついた日本の復(fù)興を助けたいと願う。帰國後、木戸孝允の紹介で京都にキリスト教を教える學(xué)校の設(shè)立を目指すが、仏教界の反発や府知事の槇村正直の非協(xié)力的な態(tài)度に苦労する。槇村の紹介で山本家に居候することになり、そこで八重と知り合う。襄は古い価値観に縛られない八重の奔放さに惹かれ、尚之助の死後、失意の內(nèi)にあった八重を勵ます中で絆が生まれ、結(jié)婚する。山本覚馬や大垣屋の協(xié)力で念願の學(xué)校?同志社を設(shè)立し、校長に就任。教職員や生徒との対立、私學(xué)を規(guī)制しようとする政府の圧力に苦心しながら、八重との二人三腳で乗り越えていく。同志社に大學(xué)を設(shè)立するための資金集めに奔走する中で、心臓の病が悪化し、最期は八重に看取られながら「グッバイ、また會いましょう?!工雀妞?、息を引き取った。
山本覚馬(やまもと かくま)演:西島秀俊八重の兄。會津藩士。文武両道に秀で、八重の熱意を認(rèn)めて彼女に鉄砲の手解きをする。藩命で江戸に留學(xué)して佐久間象山の門下で學(xué)び、藩軍備の洋式化を目指すが、藩の保守的な気風(fēng)に阻まれ、重役を批判して禁足処分を受けるが、西郷頼母の盡力で処分を解かれ、兵制改革の擔(dān)當(dāng)者に登用される。藩主?松平容保と共に上洛し京都の治安維持に當(dāng)たり、禁門の変でも活躍するが、眼に異常を感じ、白そこひと診斷され、失明宣告を受ける。鳥羽?伏見の戦いが勃発すると、戦を止めるべく大坂に赴こうとするが、途中で薩摩兵に捕えられ幽閉される。獄中では會津を救うための嘆願を続ける一方、政治意見書『管見』を作成した。獄中にある間に完全に失明し、また薩摩兵に暴行された後遺癥で歩行困難な身となった。戊辰戦爭後、『管見』を読んだ巖倉具視の推薦で京都府に顧問として出仕、京都の復(fù)興と文明開化の中心人物となり、襄の學(xué)校設(shè)立にも協(xié)力するが、知事の槇村と対立して解雇される。後に府會議員に當(dāng)選し、初代議長に就任。議會で槇村の橫暴に立ち向かい、最後は槇村と刺し違える形で府議を辭職した。その後は、商工會議所會長に就任し、引き続き京都の発展に盡くした。襄の死後、同志社の臨時総長を務(wù)めた。卒業(yè)式では日本が戦爭に向かっていることを憂えて聖書の一節(jié)を通し「二度と再び戦うことを?qū)Wばない」ことを祝辭として卒業(yè)生に送った。その後は小崎弘道に職を譲るが、間もなく八重と佐久に看取られながら、その生涯を閉じた。山本佐久(やまもと さく)演:風(fēng)吹ジュン八重の母。八重が砲術(shù)を習(xí)いたがることに対し、女子が家事をやることの大切さを教え、鉄砲は女子がする役目ではないと諭した。家族と共に鶴ヶ城の籠城戦を戦い抜き、覚馬の生存を知ると八重?みねと共に京都へ渡り、同志社設(shè)立後は寮監(jiān)を務(wù)めた。日清戦爭の後、眠るようにして亡くなった。山本権八(やまもと ごんぱち)演:松重豊八重の父。會津藩砲術(shù)師範(fàn)。八重の砲術(shù)の才能を認(rèn)めながらも女子が砲術(shù)を?qū)Wんでも活かす場が無いことから、彼女が砲術(shù)を?qū)Wぶことには頑なに反対した。しかし、八重が隠れて鉄砲の勉強をしているのを半ば黙認(rèn)していた。會津城下に新政府軍が迫ると、玄武隊の一人として戦う。八重が戦場で活躍する様子を見て「八重が鉄砲を?qū)Wんだことは間違いではなかったかもしんねえ」と感じるようになり、佐久にもそれを漏らしていた。その後、補給路確保のために編成された決死隊を率いて米を城に運ぶことには成功するが、自身はその途上で銃撃を受けて瀕死の狀態(tài)になり、八重に「にしはわしの誇りだ。皆を守れ」と伝え、家族に看取られながら息を引き取った。樋口うら(ひぐち うら)(山本うら → 樋口うら)演:長谷川京子覚馬の最初の妻。會津藩勘定方?樋口家の娘。林権助の仲人で覚馬に嫁ぐ。従順で控えめな性格だが気が強く、自由奔放な八重とは違う生き方をしながらも、家族としての絆を紡いでいた。攘夷派の浪人に襲われた覚馬を妊娠中に庇ったことがもとで第一子を流産してしまうが、その後みねを授かる。戊辰戦爭後に覚馬の生存を知るが、同時に時栄と子供の存在を知って「女の意地がある」と離縁を決意し、八重にみねを託して會津に戻った。15年後、帰郷した八重、みねと再會。みねから一緒に住もうと訴えられるが、會津に生きるとして拒否した。山本時栄(やまもと ときえ)(小田時栄 → 山本時栄)演:谷村美月覚馬の後妻。舊姓は小田(おだ)覚馬の目を心配した大垣屋が彼に無斷で遣わした女中。當(dāng)初は覚馬に斷られるが、不逞浪人に銃を向ける度胸を気に入られ、彼の身の回りの世話をすることになる。のちに男女の仲となって娘?久栄を授かり、明治に入ってから正式に夫婦となる。同居することになった八重たちとも打ち解け、妻として山本家を守るが、內(nèi)心では覚馬の心に殘る先妻?うらへの嫉妬を抱え、八重や佐久そして娘たちが外で活躍する中で疎外感を感じていた。山本家に書生としてやって來た青木栄二郎から思いを寄せられ、不義の噂が立ったことで同志社の経営にも支障を來す事態(tài)となる。覚馬は不問に付そうとしたが、八重に問い詰められた時栄は暗に不義の事実を認(rèn)めたため、離縁を言い渡され、八重に追い出される形で山本家を後にした。伊勢みね(いせ みね)(山本みね → 伊勢みね)演:三根梓(少女期: 池田沙彌花 / 幼少期:豊嶋花 / 幼児期:千葉理紗子[8] / 乳児期:中山香楽(第6回) / 谷川夢歩(第7回)[8])覚馬とうらの娘。父?覚馬が京都に出仕中で不在の中、母?うらに厳しく育てられる。戊辰戦爭後に覚馬の生存を知ると、家族とともに京都へ向かうが、うらとは別れることとなり彼女が持っていた櫛を託されて涙ながらに別れた。京都では継母である時栄に馴染むことができないまま新生活を送ることとなるが、次第に時栄とも打ち解けていく。成長後、同志社女學(xué)校に入學(xué)し、英學(xué)校に転校してきた伊勢時雄に一目ぼれする。その後、時雄から求婚され、覚馬が喜ぶ中、みねは自分がうらのように見捨てられたと感じ一度は拒絶するが、八重の説得の末に求婚を受け入れ、時雄の妻となり共に今治に向かった。時雄が同志社學(xué)校の教師になったことで京都に戻り長男?平馬を出産するが、産後に容體が悪化し、そのまま息を引き取った。死の直前、時栄の件と平馬が生まれたことでつらい運命を背負(fù)った異母妹の久栄を心配しており、久栄のことを八重に託していた。山本三郎(やまもと さぶろう)演:工藤阿須加(少年期:村山謙太 / 幼年期:山崎智史)八重の弟。兵制改革を訴える兄や、新式銃の開発に苦心する姉たちの力になりたいと権平に內(nèi)緒で佐川官兵衛(wèi)の部隊(別撰組)への入隊を志願し、佐川もその忠義の志は認(rèn)めていたが、若年を理由に斷られている。その後、江戸に留學(xué)する。鳥羽?伏見の戦いには志願して參加、果敢に敵陣に攻め入ろうとするが、銃撃を受け死亡する。遺髪と軍服は尚之助によって山本家に屆けられ、八重はこの軍服を著て鶴ヶ城に入城した。山本久栄(やまもと ひさえ)演:門脇麥(少女期:今瀬葵 / 幼少期:太田しずく)覚馬と時栄の娘。時栄が出て行ったことで、心を閉ざしてしまう。その後、徳冨健次郎と戀に落ち、共に東京に駆け落ちしようとしたが、健次郎が一人で出奔したため未遂に終る。佐久が亡くなる前後に病死した。徳造(とくぞう)演:戸田昌宏山本家に仕える下男。籠城戦前に暇をもらって山本家を去った後、お吉と結(jié)婚した。その後、伝道旅行で會津を訪れた八重?みねらと再會を果たした。お吉(おきち)演:山野海山本家に仕える下女。籠城戦前に暇をもらい山本家を去った後、徳造と結(jié)婚した。その後、伝道旅行で會津を訪れた八重?みねと再會を果たした。
新島民治(にいじま たみじ)演:清水綋治襄の父。元安中藩士。襄を前名の「七五三太」と呼ぶ。突飛な行動をとる襄を半ば呆れながら見守り、そんな襄と結(jié)婚してくれた八重とも良好な関係を築く。みねの死後、息を引き取った。新島登美(にいじま とみ)演:香野百合子襄の母。日清戦爭後、佐久が亡くなるのと前後して病死した。
松平容保(まつだいら かたもり)演:綾野剛(幼少時:山下哲平)會津藩第9代藩主。幼名は銈之丞(けいのすけ)、官名は肥後守(ひごのかみ)。會津中將とも呼ばれる。美濃國高須藩に生まれ、12歳で會津藩主?松平容敬の養(yǎng)子となり、その跡を継ぐ。養(yǎng)子だからこそ會津のために盡くしたいという思いが強いが、皮肉にもそれが後に言われる「會津の悲劇」を招くことになる。幕末情勢の混亂の中、幕府より京都守護職の就任要請を受け、當(dāng)初は拒むも、藩祖?保科正之より伝わる會津家訓(xùn)の精神[9]を貫かんと、家臣らの強い反対を押し切って就任の決斷を下す。著任當(dāng)初は言路洞開路線をとって尊攘派との融和を図るが、彼らの真意が倒幕にある事を知ると一転して厳罰主義を採り、藩士や新選組を使い取り締まった。しかし、卻って尊攘派の恨みを受け、また都で會津の武名が上がったことから幕府からも疑いの目を向けられる。藩の疲弊を理由として帰國を望むが葉わず、孝明天皇の崩御後は、王政復(fù)古や鳥羽?伏見の戦いを経て朝敵の汚名を受け、失意のうちに會津に帰國する。新政府には武備恭順の態(tài)度を示す一方で、萬一に備えて軍制改革を行う。白河口が破られ、會津城下での戦いが必至となると會津は會津の手で守ると重臣らを奮い立たせたが、會津勢は苦戦を強いられ、苦渋の決斷で降伏した。この直前、萱野権兵衛(wèi)への伝令役という形で西郷頼母を城から追い出すが、これは彼に生きて會津の汚名をすすいで欲しいとの願いから下した決斷である。そして彼の背中を見屆けながら「生きよ…、頼母…」と無事を願っていた。降伏後は謹(jǐn)慎し、會津戦爭の戦沒者の冥福を祈る日々を過す。のちに高木時尾と藤田五郎の結(jié)婚の仲人を元家臣の佐川とともに務(wù)めたが病に倒れ、會津の名譽回復(fù)を山川兄弟に託して息を引き取った。松平照(まつだいら てる)(照姫 → 松平照)演:稲森いずみ容保の義姉。文武両道に優(yōu)れており、その人柄は八重たち?xí)颏闻预郡沥松瞍饯铯欷皮い??;イい怂遥ㄕ諍陨恧?a class="link" rel="nofollow" target="_blank">飯野藩??萍遥─椁勿B(yǎng)子であるために容保とは血の繋がりは無く、それ故か彼に幼い頃から想いを寄せていた。一度は他家に嫁ぐが、離縁されて會津松平家に戻り、容保夫妻と江戸上屋敷に住まうが、後に會津に移る。鶴ヶ城篭城戦では城內(nèi)の女性たちをまとめ、降服の際には自ら白旗に「降參」と書き入れた。戊辰戦爭後は実家???萍窑祟A(yù)けられていたが病に倒れ、容保に看取られて息を引き取った。松平容敬(まつだいら かたたか)演:中村梅之助會津藩第8代藩主。照姫、容保の養(yǎng)父。容保に対し、「徳川將軍家への忠義を第一に掲げる會津家訓(xùn)[9]に沿って生きるように」と説いた。しかし、これが図らずも、後に容保を始めとした會津藩全體を最悪の兇事へと導(dǎo)く事を運命づけてしまう。敏姫(としひめ)演:中西美帆容保の正室。松平容敬の実娘で、照姫と容保にとっては義妹。皰瘡を患い、照姫に「姉として容保を支えて欲しい」と遺言して世を去る。松平喜徳(まつだいら のぶのり)演:嶋田龍會津松平家第10代當(dāng)主。容保の養(yǎng)嗣子で徳川慶喜の実弟。幼名は余九麿(よくまろ)。
西郷頼母(さいごう たのも)演:西田敏行會津藩家老。會津に赴いて間もない容保に近くで仕え、會津藩の藩風(fēng)や仕來りなどを教育した。幼少期の八重とは模擬戦である追鳥狩の際に草履を落とされ妨害された際にその張本人が八重であると知った際に初対面し激怒した。藩の兵制改革にいち早く賛同し、覚馬を取り立てた。幕府の京都守護職要請に際しては、容保に要請拒否を強く求め、守護職就任後も速やかな辭職を求め続けたことで容保の不興を買って家老職を解かれ、謹(jǐn)慎を命じられる。鳥羽?伏見での敗戦後に家老に復(fù)職し、新政府への恭順を主張した。會津戦爭が勃発すると白河方面の総督を任されるが、寡勢の新政府軍に敗北する。その後、鶴ヶ城に帰參し再度の恭順を勧めたが、周りの重臣が徹底抗戦を主張している中で孤立し、白河総督の任を解かれた?;\城戦となると登城するが、次第に會津が絶望的な狀況になると會津存続を願って改めて恭順を勧めるが、徹底抗戦を主張する多くの重臣に非難され、容保からも意見を聞き入れられることはなく、萱野権兵衛(wèi)への伝令役という形で実質(zhì)的に城を追われた。役目を終えると會津を離れ、函館戦爭に身を投じるが、それも敗北に終わると生きて會津を踏みつぶしていった者達(dá)が作る世を見屆けると決意する。維新後、會津を訪れた八重と再會し、これまで生きてきた経緯を語り、會津戦爭から立ち上がり勲章をもらった八重を一度散っても春になれば再び花を咲かせる桜に例え、會津の希望であることを示唆した。西郷千恵(さいごう ちえ)演:宮崎美子頼母の妻。城下に新政府軍が襲來すると、會津の無実を訴え、新政府軍の非道な力には屈しないことを死を持って示すのが西郷家の役目と殉死の大儀を家族に諭したのち、一家と共に自刃して果てた。西郷眉壽(さいごう みす)演:中島亜梨沙頼母の妹。西郷由布(さいごう ゆう)演:玄里頼母の妹。西郷細(xì)布(さいごう たえ)演:田中明頼母の長女。母や一族と共に自刃するが、死に切れずに瀕死の狀態(tài)でいたところを板垣退助に発見され、彼女の願いを容れた板垣によって止めを刺される。西郷瀑布(さいごう たき)演:豊田留妃頼母の次女。西郷律(さいごう りつ)演:久松夕子頼母の母。西郷吉十郎(さいごう きちじゅうろう)演:関ファイト頼母の長男。母?千恵から父?頼母と共に働くよう言われたため、一族の自刃からは逃れた。西郷常磐(さいごう とわ)演:田嶋絆頼母の四女。
山川浩(やまかわ ひろし)(山川與七郎 → 山川大蔵 → 山川浩)演:玉山鉄二(幼少期:里村洋)山川家の長男。幼名は與七郎(よしちろう)、長じてからは大蔵(おおくら)を稱する。八重とは幼馴染で、密かに想いを寄せていた。父親を早くに亡くし、若くして山川家の當(dāng)主となる。京都へ上り、容保の側(cè)近として活躍して奏者番に昇進。さらに幕府の外國奉行の供として歐州を回り見聞を広めて帰國する。鳥羽?伏見の戦いでは洋裝して前線で指揮を執(zhí)り、瀕死の重傷を負(fù)った三郎の最期を看取った。會津戦爭では日光口の守備を任され、板垣退助率いる新政府軍の進軍を阻み、その後は佐川官兵衛(wèi)と共に家老に進んだ。新政府軍に包囲されている鶴ヶ城に帰城する際、行軍の列の先頭に彼岸獅子を立てる奇策で入城に成功する。會津戦爭後は、他の藩士と共に豬苗代の謹(jǐn)慎所送りとなる。戊辰戦爭後は容保の助命嘆願や家名再興に力を盡くし、家名再興が許されると斗南藩の大參事に就任するが、藩は財政難に苦しめられ、藩のために行動した尚之助の裁判でも、苦渋の決斷で藩の関與を一切否定した。廃藩置県後、陸軍に仕官して佐賀の亂の鎮(zhèn)圧にあたり、その際の負(fù)傷で左腕が不自由となる。西南戦爭にも出征し、西郷軍に囲まれた熊本城に入城するという功績を挙げた。一方で自宅に多くの會津出身者を書生として抱え、彼らの育成に心を砕く。また容保から孝明天皇の「御宸翰と御製」を託され、會津の雪免を目指して『京都守護職始末』の編纂に著手するが、完成を健次郎に託し息を引き取った。山川二葉(やまかわ ふたば)(山川二葉 → 梶原二葉 → 山川二葉)演:市川実日子(幼少期:愛川あおい[10])浩の姉。梶原平馬に嫁ぎ、夫に従って京都に滯在し、一子?寅千代を儲ける。會津藩が京都を撤退すると、江戸を経て會津に帰國する。戊辰戦爭後、平馬と離縁し家族とともに東京に住まいを移した。多くの書生を抱え、火の車の山川家の家計を遣り繰りしている。山川健次郎(やまかわ けんじろう)演:勝地涼浩の弟。學(xué)問には秀でていたが、砲術(shù)等や武蕓は不得手で「青瓢簞」と呼ばれていた。會津戦爭に八重が率いる鉄砲隊のひとりとして參加し、八重を補佐して籠城戦を戦い抜いた。戊辰戦爭後は豬苗代の謹(jǐn)慎所に送られるが、梶原平馬の計らいにより、アメリカに留學(xué)。イェール大學(xué)で物理を?qū)Wび、帰國後は東京開成學(xué)校(後の東京帝國大學(xué))に採用され、教授となる??茖W(xué)者として同志社のハリス理化學(xué)館の建設(shè)にも関わった。浩から『京都守護職始末』の完成を託され、刊行寸前まで漕ぎ著けることができたが、日露開戦を前に國內(nèi)の混亂を恐れた政府の意を受けた大山巌の説得に折れて刊行を思い止まるが、「永久に封印はしない」と釘を刺した。大山捨松(おおやま すてまつ)(山川咲 → 山川捨松 → 大山捨松)演:水原希子(乳児期:大谷美玲[11] / 幼少期:ほの花 5 ) 【轉(zhuǎn)】?幕末諸藩的站隊及結(jié)局 當(dāng)時日本的各藩基本可以分成三種站隊,站在九州與中國地區(qū)的藩基本都是尊王倒幕為主,像薩長土肥各強藩那就是急先鋒了。還有細(xì)川的熊本藩,池田的岡山藩,鳥取藩等西國強藩后期也拋棄江戶幕府,選擇大政奉還了。 而中部近畿地區(qū)的藩以觀望為多,典型的就是站隊狂魔金澤藩的前田氏。百萬石的大大名一開始支持幕府,鳥羽伏見之后降服于新政府。還有一個典型就是津藩的藤堂氏,鳥羽伏見和幕府軍上了戰(zhàn)場,一看形勢不對立刻臨陣倒戈。當(dāng)時戰(zhàn)場上幕府方的士兵為此非常憤慨,大罵他們是受了初代藩主的熏陶(その行い、藩祖(高虎)に似たり‘)。
而關(guān)東包括東北各藩則是支持幕府的較多。但由于鳥羽伏見戰(zhàn)役時德川家已經(jīng)成為朝敵,所以絕大多數(shù)支持幕府的藩主也都選擇明哲保身,表示恭順。后來很快江戶無血開城,德川家降服。所以這時候絕大多數(shù)關(guān)東諸藩所想的只是如何保全自己。包括會津藩,當(dāng)時也向新政府提交了降服的書狀,但由于雙方在條款上不能達(dá)成一致。同時由于會津藩在藩主松平容保擔(dān)任京都守護職時血腥鎮(zhèn)壓過倒幕派,在禁門之變中會津還擊敗過長州藩,所以,新政府在薩長主導(dǎo)下,有意殺雞儆猴,懲罰會津而震懾別的佐幕或親近幕府諸藩。此外,由于之前在上野的宇都宮城之戰(zhàn)中,殘余的幕府軍實力尚存,大鳥圭介甚至一度逆襲攻下了政府軍掌控的宇都宮城,幾乎改變戰(zhàn)爭結(jié)果。因此,為了徹底粉碎本州島上的佐幕諸藩的作戰(zhàn)能力,作為雄藩之一,同時又是佐幕急先鋒的會津藩(其實還有桑名藩)勢必要被懲處。 由于東北諸藩在之前的戰(zhàn)事中多采取支持幕府的立場,此刻看到做為奧州門戶的會津面臨覆滅的可能,不免有唇亡齒寒之感。于是聯(lián)名上書請求寬大會津。不過因為一些意外,當(dāng)時新政府在奧州設(shè)置的鎮(zhèn)守府總督九條道孝被扣押,參謀世良修藏被仙臺藩的藩士刺殺,雙方和睦的可能破滅。于是作為舊幕府方的奧羽越列藩推出北白川宮能久王為東武天皇,在白河小峰城會戰(zhàn)新政府軍,可惜潰敗,作為主力的會津士兵敗退回會津籠城,一路遭到新政府追擊,隨著會津藩支藩豬苗代藩被攻陷,會津本城若松城也不得不進行籠城。這段故事就是大家都知道的會津戰(zhàn)爭,被稱為整個壬申義戰(zhàn)爭中最激烈的戰(zhàn)事。會津落城后,奧羽越列藩同盟中許多藩選擇退盟,甚至一些藩倒戈(佐竹氏秋田藩)。剩下的像伊達(dá)氏仙臺藩也被迫降服。列藩同盟于是就解散了。日本本島戰(zhàn)事結(jié)束。不過仍有一些支持舊幕府的武士,伙同一些不滿新政府的各藩武士,選擇北上北海道。在舊幕府大將榎本武揚帶領(lǐng)下建立了短命的蝦夷共和國。不過這已經(jīng)是德川家流亡武士團的立場,不能代表幕府各藩的立場了。由于東北諸藩在之前的戰(zhàn)事中多采取支持幕府的立場,此刻看到做為奧州門戶的會津面臨覆滅的可能,不免有唇亡齒寒之感。于是聯(lián)名上書請求寬大會津。不過因為一些意外,當(dāng)時新政府在奧州設(shè)置的鎮(zhèn)守府總督九條道孝被扣押,參謀世良修藏被仙臺藩的藩士刺殺,雙方和睦的可能破滅。于是作為舊幕府方的奧羽越列藩推出北白川宮能久王(后來病死在臺灣那位)為東武天皇,在白河小峰城會戰(zhàn)新政府軍,可惜潰敗,作為主力的會津士兵敗退回會津籠城,一路遭到新政府追擊,隨著會津藩支藩豬苗代藩被攻陷,會津本城若松城也不得不進行籠城。 這段故事就是大家都知道的會津戰(zhàn)爭,被稱為整個壬申義戰(zhàn)爭中最激烈的戰(zhàn)事。會津落城后,奧羽越列藩同盟中許多藩選擇退盟,甚至一些藩倒戈(佐竹氏秋田藩)。剩下的像伊達(dá)氏仙臺藩也被迫降服。列藩同盟于是就解散了。日本本島戰(zhàn)事結(jié)束。不過仍有一些支持舊幕府的武士,伙同一些不滿新政府的各藩武士,選擇北上北海道。在舊幕府大將榎本武揚帶領(lǐng)下建立了短命的蝦夷共和國。不過這已經(jīng)是德川家流亡武士團的立場,不能代表幕府各藩的立場了。 第一次聽說這部劇是三年前在臺灣,盡管當(dāng)時臺灣同學(xué)極力推薦,聽完后我只是上網(wǎng)大致瀏覽了劇情,并沒有太在意。 再次想起這部劇是在去年12月。碩士論文聚焦于一個日文文本在中國的傳播,由此逐漸接觸日本近代史,發(fā)現(xiàn)自己對這個國家的了解真是太少太少——如果套用一位老師的話,大概是無知到令人發(fā)指吧。國內(nèi)關(guān)于日本的歷史書當(dāng)然不少,但總覺得少了點什么,而且似乎有些乏味。原版日文書不容易得到,而且對我來說還是有些晦澀,想著能否通過紀(jì)錄片、歷史劇之類的對時代背景有一番大致的了解。也是在這個時候,想起了這部劇。其實我已經(jīng)完全忘記了劇情,只記得是綾瀨遙主演,想著應(yīng)當(dāng)不至于太差吧。 然而,初看幾集,這部劇似乎并不吸引我。這是我第一次接觸日本歷史劇,不知道這是不是歷史劇的通病。加上放假回家的緣故,看到第四或第五集左右,我就處于棄劇狀態(tài)了。 在家待了兩個月后,在劇荒的情況下再次拾起了這部劇。(而且,我不喜歡半途而廢。)一天一集,慢慢地,隨著那些熟悉的歷史名字一個個出現(xiàn),我開始跟上了這部劇的節(jié)奏。才知道,原來日本是這樣走向近代的。“從幕末到明治”,這簡簡單單的六個字背后可是一代人的浴血奮戰(zhàn)啊。 看到有評論說劇情過于冗長,五十集似嫌多。然而在我看來,這段歷史承載了日本的過去,又充滿了對未來的期待,五十集的篇幅已經(jīng)是幾近濃縮了吧。要把這段歷史講好且呈現(xiàn)在熒幕上太難了。好在本劇選取了八重這個角色,以她的個人經(jīng)歷為線索,借由她身邊的人與事,將日本的近代化歷程娓娓道出。 個人認(rèn)為,這是一部不錯的劇,對于想要了解這段歷史的人尤其值得一看。當(dāng)然,即使是藝術(shù),免不了高于生活。比如八重為保衛(wèi)會津中持槍走上戰(zhàn)場,劇中展現(xiàn)的颯爽英姿,多少有些夸張成分吧。盡管如此,劇中所展現(xiàn)的,忠與不忠的抉擇,近乎極端的武士道精神,劇變下的陣痛與掙扎,成長的勇氣,對生與死的思考,對戰(zhàn)爭的反思,都值得細(xì)細(xì)品味。 (未完待續(xù)……) 6 ) 從幕末走向明治
7 ) 我也說下不可為之事則不可為
首先,小時候的八重是一個男孩子氣的女孩,明知不可練習(xí)鐵炮而為之;
吉田松陰以及后來的新島襄,都是明知不可偷渡而冒死為之;
統(tǒng)治著因駐守日本各地而早就財政吃緊的會津藩的松平容保,明知不應(yīng)擔(dān)當(dāng)京都守護職而為之;
一心要開國的井伊大老,明知不應(yīng)違逆天皇的意愿而為之;
長州藩的久坂玄瑞,明知長州在八月十八政變后大勢已去,仍然要在蛤御門冒死一搏;
忠于幕府的松平容保,會津藩士和新選組,明知道會在新政府軍前不堪一擊,卻因為自己所相信的忠義而拼死奮戰(zhàn);
逃亡蝦夷的舊幕府軍和其中的西鄉(xiāng)賴母,明知道蝦夷共和國只是個短暫的夢卻要大膽地去嘗試;
維護舊武士精神的西鄉(xiāng)隆盛,明知最終是失敗卻義無反顧地加入了反抗的薩摩士族;
剛剛從封建國家開始發(fā)展了三十年的日本,明知自己和版圖遼闊的俄羅斯帝國勢力懸殊卻要冒險一戰(zhàn);
作為女子和基督徒的八重,明知自己的行為不被當(dāng)時的主流社會接受卻仍要走自己的路;
其實幕末和明治時期是一個為了理想能夠做一切不可為之事的時代吧。 8 ) 簡要介紹一下新島襄、新島八重的人生
新島襄出生于1843年,上州安中藩藩士之子,本名七五三太,后來把自己的英文愛稱joe翻譯成襄。剛剛成年的時候,從友人那里借到一本美國地理書,了解到了美國的聯(lián)邦共和民主制度,對美國文化產(chǎn)生了興趣。后來到了幕府的軍艦學(xué)校,學(xué)習(xí)西方文化和科學(xué),有一天,他突然被美國牧師翻譯的漢譯圣經(jīng)中“傳播福音與自由的國度”一類的語句產(chǎn)生了興趣。遂于1864年在俄國傳教士和坂本龍馬的兩個朋友幫助之下突破幕府禁令前往美國波士頓。在途中認(rèn)識的一對船長夫妻的幫助下,新島以“喬.新島"的名義入讀位于美國馬薩諸塞州埃塞克斯縣安多佛的私立名門高中菲利普斯學(xué)院,后來又成功考入美國知名私立大學(xué)安默斯特學(xué)院,在明治政府的支持下,新島于1870年順利畢業(yè)。新島在美國讀高中時接受了美國公理會系基督教派的洗禮--公理會系是一個主張教會自治、主教民主選舉的基督教派--這對新島的人生產(chǎn)生了極大影響。新島在大學(xué)畢業(yè)后就遇見了巖倉使節(jié)團,隨巖倉使節(jié)團從美國轉(zhuǎn)到歐洲,撰寫了教育制度考察報告,新島的報告對明治政府的教育方針產(chǎn)生了極大的影響。1874年,新島襄從美國公理會系的神學(xué)院畢業(yè)后立志在日本建設(shè)一座基督教大學(xué),他從美國籌措了5000美元的善款后,迅速回國,在八重之兄的幫助下出任同志社英語學(xué)校(后來發(fā)展為同志社大學(xué))的初代社長(校長)。1877年,新島襄開辦了同志社女子學(xué)校(后來發(fā)展為同志社女子大學(xué))開日本女性接受現(xiàn)代正規(guī)教育之先河。1886年,本著基督教平等博愛的精神,新島襄又一手創(chuàng)立了日本第一座女子護士學(xué)校。
新島八重,本名山本八重,昔日是會津藩槍法教頭的女兒,善使步槍,自幼習(xí)武,有過一任丈夫,但在戊辰戰(zhàn)爭前兩人已經(jīng)離婚。戊辰戰(zhàn)爭之際,新島八重手持一把斯賓塞步槍殺敵無數(shù)。后來在兄長介紹下,前往京都女紅場當(dāng)茶道老師,期間與新島襄兩人相知相戀,并接受基督教洗禮,成為基督徒。當(dāng)時新島襄創(chuàng)辦新式大學(xué)的舉動得罪了不少人,連與之訂婚的八重也被牽連而失業(yè),然而八重?zé)o怨無悔。兩人于1876年舉行了京都第一對日本基督徒之間的西式婚禮。新島八重發(fā)揮其在女紅場任教的經(jīng)驗,幫助新島襄開展學(xué)校運營工作,成為職業(yè)女性。新島襄秉承歐美的女士優(yōu)先理念,,新島八重則追求男女平等,兩人意氣相投,成為愛人加戰(zhàn)友。秉持自由平等的理念兩人一直偷偷地資助日本的自由民權(quán)運動。
新島夫婦踐行男女平等、自由博愛的行為,普遍不為周遭所理解。對于八重在丈夫前面上火車,不把丈夫叫主人而叫英文愛稱“joe”的做派,周遭罵聲不絕。1890年新島襄死后,連他的弟子都故意疏遠(yuǎn)她。但是新島八重不予理會,后來她開辦了茶道學(xué)校,加入紅十字會會員,同時致力于各種婦女社會活動。甲午戰(zhàn)爭和日俄戰(zhàn)爭期間,她自愿報名成為日本紅十字會的醫(yī)護人員,開展后方醫(yī)護工作,才得到人們的尊敬和理解。
看到33集 看不動了
第一次看大河劇覺得好贊,卡司好強,首回被剛哥的溫柔感動了。
看一兩集就棄番或抨擊的,可憐膚淺。此劇歷史感強,線索清楚,表演到位,傳承了大河劇很多優(yōu)點。有些人評論人物臉譜單一,實屬不明所以,請問善良忠誠難道還有很多模樣嗎?大河劇要傳達(dá)忠義,必定只能如此,這是策略,是大范疇大方向。
你便是櫻花,即便花謝,一旦時機來臨,花也會再次綻放,無論多少次,無論多少次,花皆會綻放~!
雷聲大雨點小,片頭最好看——NHK大河劇果然就是太長。
東日本應(yīng)援 整體向上樂觀的節(jié)奏 日本歷史中的女人啊真是如花又堅強在動蕩的時代中走出自己的路 劇本整體是中庸的和平之策 長谷川博己仿佛天仙下凡hhh 音樂絕品 不愧是教授 單純聽OST亦有故事感
ならぬことは ならぬのです
2015第一遍,2022第二遍。中途2019年底去了會津若松。這部片子和篤姬區(qū)別很大。篤姬講述的是女性在幕末的大勢下的無力感,即使江戶無血開城,也基本是勝海舟和西鄉(xiāng)隆盛的功勞。在立意上,這部片子更勝一籌,八重幾十年的人生,包括容保公的會津藩,土方歲三所在的蝦夷共和國都把第一話明知不可為而不可為,反向操作。明知不可為而為之。加上戰(zhàn)爭反思,很有看頭嘛。
喜歡不來綾瀨遙,棄。
這部劇所具有的文明品質(zhì):1.歷史上失敗的保守派的立場,在時過境遷之后轉(zhuǎn)化為一種歷史抒情。2.第一集是世界史敘述,從美國南北戰(zhàn)爭的武器傳入幕府末年的日本講起。3.每集末尾溝通了昨日的日本與今天的日本,串聯(lián)了一個永恒聯(lián)盟。4.對中國觀眾而言,看到了很多儒家與武士精神熔鑄的品質(zhì)。
被低估的一部大河,在眾多幕末背景的大河劇中,這是最深刻的一部。山本八重從起初的鐵炮崇拜到后來投身西式教育和紅十字,代表了日本從效法西方軍事到通過開啟民智、確立民主制度來富國強兵的轉(zhuǎn)變,對于甲午戰(zhàn)爭、日俄戰(zhàn)爭本劇都是持反對態(tài)度的,結(jié)尾更有止戰(zhàn)意味。全劇精華在于會津圍城戰(zhàn)那幾集,拍得驚心動魄,而槽點在于,此前的倒幕與傳主基本無關(guān),此后的辦學(xué)拍成了平淡的流水賬,盡管有小田切讓出場還是讓人提不起興趣。綾瀨遙還是演出了八重的英武之氣的,這個人太能活了,把所有同時代的人都耗死了,自己活到了昭和年間。
第一話的感觀還真不錯,不過啃年番有點缺乏毅力
可以看同名漫畫,情節(jié)更緊湊人物更完整。最令人唏噓的人物川崎尚之助,憑此角長谷川博己力壓其他幾位名演員。異常宏大的題材??上Ь巹√享臣恿颂嗖槐匾膬?nèi)容,未能成為一部名作,遺憾。
三星給卡司吧,還沒熬到小田切讓出來我就要棄了;果然中國歷史太強大以至于大河劇月帶頭神馬的實在啃不下去。
看不進去了哎
在時間上幾乎是與篤姬相重合的,但完全是不同的角度甚至相對立。平民的視角把幕末時期描述的更加殘酷。歷史從來都是少數(shù)人決定大多數(shù)人都命運,會津一國各位的坎坷命運讓人嘆息落淚。
開頭的美國南北戰(zhàn)爭拍出的完全是日本味的陣地戰(zhàn)。人物背景沒什么爆點,“不可為之事則不可為”一句透露出強烈的迂腐感,當(dāng)然整部片子要講的是大奶遙隨著時代的演進思想轉(zhuǎn)化的過程,最終首創(chuàng)了許多“不可為”。第一集的重點完全是8歲的小LOLI,演得太好了
嘛,維新真是最好的時代啊,覺得比戰(zhàn)國時候燃多了……于是八重之所以牛掰也是因為周遭的男人們都是大神吧,戰(zhàn)亂年代又何以以一己之力殺敵無數(shù)呢……
實在太喜歡幕末明治了,一個拼命向前沖的無所畏懼的時代,特別是看到同志社的那群人暢談理想的時候,一股熱淚w只有流血才能進步這點我同意。山川浩是筑波大學(xué)校長的話那么阿一的警衛(wèi)工作也許就是他介紹的。玉山鐵二勝地涼池內(nèi)博之小泉孝太郎反町隆史都太特么帥了,我心中的容保公長綾野剛那樣。
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